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松山千春の人生(たび)
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砂山重太郎殿
 
 空を求め  
   海を求め
 
 美国の里に  
      眠りつく
 
 愛を忘れな  
  夢を忘れな
 
  松山千春作



 自分の空を捜し求め、海を捜し求め、ついにこの美しき国、美国の地に眠りつくことになりました。
二十八年という短い人生でしたが、波乱万丈とても幸せな人生をおくることができました。
今、君に残します。
いかなる時にも愛を忘れてはいけません。


 昭和57年6月27日、海を遠く望む、町のちょうど裏手にあたる小高い丘の上に建てられた、この碑は明治の中ごろ、この美国でわずか27歳とういう若さで亡くなった砂山重太郎を偲んでのものである。
 石碑の表面には、松山千春の手による詩文が刻まれている。伝説の人物にすぎなかった砂山重太郎の存在が確認されたのは、昭和30年代初めのことである。美国の古刹・観音寺の住職が、手つかずでほうってあった位牌棚を整理中に、偶然、黒塗りに朱で書いた位牌を発見したのだった。寺の過去帳を調べて、明治27年8月19日死亡、行年28歳、青森県弘前の人とまではわかったが、縁者、喪主の記載はなく、やむなく無縁仏として葬られたものであったらしい。

 そして、砂山重太郎と松山千春の血のつながりが明らかになったのは、ごく最近のことである。「オレのひいじいちゃんにあたる人なんだよね。剣の達人で、積丹の美国で死んだっていう話は子供のころから聞かされて、オレも知ってた。でも、最初にその話をしてくれたおじさんていうのが、親戚中でも大風呂敷で有名だったから、あんまり信用できないなと思ってたんです。ところが、いろんな人に話を聞いていくうちに、こりゃ本当にすげえ生き方をしたんだってわかってきて、感激したんです」(松山千春)思いもかけずに明らかになった自分のルーツに、こころなしか、彼の口調もはずんでいるようである。
 松山千春は、道東の足寄の出身だが、その曾祖父が、なぜ、美国で死ななければならなかったのであろう。現在の美国には砂山重太郎が生きていた明治20年代という時代を直接知っている人は、もうひとりも生き残っていない。わずかな資料とさまざまな伝説が残されているだけである。砂山という姓は、松山千春の母方の苗字だが、これらの美国に伝わる伝承と、砂山家に語り継がれてきたさまざまな事柄、そしてそれに、明治時代の開拓者たちでごったがえしていた石狩湾一帯の歴史を重ね合わせていくと、ぼんやりとしてはいるが、確かな現実味を持つ砂山重太郎という人間が浮かび上がってくる。
 「砂山という苗字は明治の初めに改姓したものなんです。もともとは須藤という姓を名乗っておりました。」こう語る砂山勇さんは、現在、札幌に在住している。松山千春の母・美代子さんの兄にあたる人、つまり千春の伯父さんということになる。祖先はもともとは弘前藩の武士であった。砂山重太郎の父親は、名を須藤元十郎といい、藩の要職をつとめる人物であったという。維新で、扶持を離れた東北諸藩の士族たちが、北海道開拓のさきがけとなった。もちろん、須藤元十郎もこの時代の流れに無縁でいることはできなかった。彼の所領は、五所川原の砂山というところにあったというが、持てるだけの財産を持って、砂山元十郎と名を変え、北海道へ移住する人々の群れに身を投ずる。まだ乳呑み子の重太郎と病弱な妻を連れての逃避行である。
 元十郎が流浪の果てにたどりついたところは浜益という小さな漁港であった。ちょうど石狩湾をあいだにはさんで積丹半島と向かい合う形になる雄冬岬の足元にあたる場所である。元十郎はここで持っていた財産を処分し、旅館を建て、客商売を始める。商売が一段落したところで、旅館の裏手に剣道の道場を開いた。流儀は北辰一刀流。重太郎はこの父のもとで、ものごごろつくころから剣の手ほどきをうけ、やがて、道場の麒麟児として近隣にその人ありと知られるようになっていく。砂山重太郎を直接知っていたという人が死んだのは、今から14〜15年前のことだが、その老人の言葉によれば、砂山重太郎は、細面の美青年であったという。
 その姿を推し量るように松山千春はいう。「お寺のお坊さんとか、話を知ってる人に聞くとね、体型はオレそっくりだっていうんだよ。しかも、顔もね、オレとずいぶん似ていたらしい。意志が強く強情だったっていうところもオレそっくりだし。だから、砂山重太郎っていうのは、松山千春と赤胴鈴之助をミックスしたような人じゃなかったかって思うんだ」。
 成人して、故郷を捨てるまでの砂山重太郎のたどった道は、もうひとつよくわからない。ただ、20歳を過ぎたころ、すでに両親ともに死別しており、家業は、元十郎の養女で、重太郎にとっては妹にあたるハマという女性が継いでいる。おそらく重太郎は、道場主として剣の腕を磨くことに精進していたはずである。やがて結婚するが、妻はふみという一人娘を生んだあとすぐ病死している。残念ながら、妻になった女性の名前は、どの資料にも残っていない。
 美国にはじめて砂山重太郎が姿を現すのは、明治22年のことである。浜益に妹のハマと娘のふみを残しての単身行であった。彼が故郷を捨てるに至る細かないきさつはわからない。しかし、江戸時代ならともかく、明治に入ってから剣士として身をたてていくことはきわめて困難なことだったろう。浜益からまっすぐ南下していけば、新興の道都・札幌である。重太郎の出奔は浜益から札幌へ、そして札幌から美国への移動は、ある使命をおびていたものであった。そのことを考える前に、まず、当時の美国を中心にした歴史の中に足を踏み込まねばなるまい。
 そのころの北海道に莫大な現金収入をもたらしたのは、なによりニシン漁であった。とくに、西海岸一帯は好漁場が多く、追分で有名な江差あたりから石狩湾一帯にかけて、春先、海一面が乳白色に染まったと、いまでもいい伝えられるほどの大群が訪れていたのだろう。美国もそういう好漁場のひとつであった。網元一ヶ統につき、1000石以上の漁獲量を揚げる漁港を千石場所と呼んだが、美国もまた、まぎれもなく千石場所であり、ニシン漁の全盛期には、いわゆるニシン御殿と呼ばれる網元たちの豪邸が立ち並んでわが世の春を謳歌していた時代なのである。
 いまでこそ、美国はわずが人口3000人の町だが、当時は定住者だけで5000人。そのうえ、ニシン漁の季節になると本州から3000人以上のやん衆たちが集まって活況を皇したのである。また、そういう好景気をあてこんで、商人、旅役者、芸者、女郎などが数多く集まってきた。最盛期には、町の人口はおそらく1万人を超えていただろうという。
 そして、これにからみつくかたちで博徒たちが美国に乗り込んでくる。口実は、季節労働者の確保など、網元たちの利益を保護するというものであった。しかも、当時は美国のみならず、網元たちのあいだでも、漁法の違いによる対立が表面化していた。定置網を使用する建て網派と、流し網による刺し網派がことあるごとに争いを起こし、網切り事件ややん衆同士の暴力沙汰が日常茶飯事のことであった。
 北海道自体が、急速な開発、発展のひずみを明らかにして、江戸時代から続いてきた古い街・函館と、めざましい勢いで膨張してきた札幌の2つに分かれて争っていた、といっていいだろう。博徒の勢力範囲からいうと、函館には、相撲取りあがりの石車という親分が丸茂一家をかまえ、札幌には新興勢力の一丁一家がいた。
 美国ははじめ、函館の丸茂一家の縄張りだったが、網元同士の対立をさばききれず、札幌の一丁一家が混乱をおさめるべく乗り込んでくることになる。この両者の縄張り争いは町の抗争に拍車をかけてしまい、白昼、日本刀を持った無頼漢たちがことあるごとににらみ合う、物騒な雰囲気になっていったのである。
 博徒たちの争いの真っ只中に、砂山重太郎が登場したのであった。重太郎は博徒ではない。おそらく、札幌で、このヤクザどうしの抗争に終止符を打つためには、あなた以外に人はいないと懇願されたのであろう。
 美国での砂山重太郎については、さまざまな話が残っている。ステッキがわりに仕込み杖を持ち歩いたが、それを抜いたことは一度もなかったようである。争いごとの仲裁に割って入っても、たけり狂ってとびかかろうとする暴徒の小手をピシリと打って、持っていた匕首をたたき落としたという。おそらく、暴力沙汰をいましめ、話し合いでの解決をさとしたのに違いない。
 重太郎の努力のかいあって、函館組と札幌組は裁判所の決済をあおぐことになる。町にいっときの平和が訪れた。この紛争をさばいたことで、いちばん喜んだのは、町の人々だったに違いない。砂山重太郎はここで、人々に親しまれながら、山に植林したり、美国川に鯉を放流するなどという公共事業も行っている。けれども、それは束の間の平和であった。やがて、札幌の地方裁判所で、美国をめぐる抗争の判決が下りる。札幌側の勝訴であった。美国の人々としては、札幌が勝とうが函館が勝とうがどちらでもよかった。とにかく、町が平穏でありさえすれば・・・・。けれども、おさまらないのは、函館の丸茂一家だった。なんとか、美国をもう一度自分の勢力範囲に取りもどしたい。刃傷沙汰はもとより恐れるところではない。それを考えていくと、なによりも目ざわりなのは、砂山重太郎の存在であった。
 丸茂一家は重太郎を亡き者にしようとさまざまな策略をめぐらしはじめる。明治26年の秋、最初の事件が起こった。月のない闇夜であったという。近くの料理屋に呼ばれて酒をごちそうになり、仮住まいに帰る途中、数名の男たちに襲われた。それも、手拭いの先に石を包んで、すきを見せた重太郎をとりかこんで袋だたきにしたのである。このとき、重太郎は仕込み杖を抜こうと思えば抜けた。けれども、抜かなかった。自分が刀を抜けば人が必ず死ぬことになり、人を殺せば、自分もヤクザ者の凶状持ちとなんら変わるところなく、人々から“先生”と慕われることもなくなることをよく知っていたからだろう。近所の人たちに助けられて、やっと家に帰りついたものの、予想外の重傷であったという。医者も満足にいない美国では思うように傷の手当てができない。そして寝たきり動けない状態では、つぎに襲われたらもう防ぎようがない。周囲の人々の配慮で、重太郎は馬車に乗せられ、札幌の病院に移される。
 札幌の病院で、重太郎は芸者あがりのひとりの艶っぽい女と知り合う。病院での孤独な生活から、重太郎はこの女と恋に落ちる。傷がほぼ全快するまで約10か月かかっている。美国にもどろうとすると、彼女はそのまま札幌でわたしといっしょに暮らそうという。重太郎は迷ったが、やはり美国を捨てることはできず、女と別れる決心をするのである。女は重太郎にうらみの言葉残して姿を消す。美国の古老に伝わる話では、この女こそ、函館の丸茂一家からさしむけられた、重太郎を美国にもどさぬための第2の罠であったという。女の重太郎に対する気持ちがどれだけ真実であったかはわからないが、美国へ行けばあなたは死にますといえなかった悲しみがあるとすれば、これもまた、あわれである。
 美国にもどった重太郎が、3人の刺客に襲われたのは、明治27年8月19日、お盆もあと1日で終わるという日の白昼であった。夏祭りも無事に終わろうとしている安堵感もあったのだろう。火の見櫓に背をもたせかけて、ぼんやり海をみつめていたという。刺客は、重太郎の正面からふたり、背後からひとり、白刃をきらめかせていっせいに襲いかかった。正面のふたりに、身をひるがえして反撃しようとしたせつな、背後から襲った刺客が、めくらめっぽう突き出した刃が、脇腹をえぐった。一瞬の出来事であった。重太郎の脇腹からおびただしい血が流れ、彼は膝を折ってこの傷に耐えようとした。刺客たちは足早に逃げ去った。脇腹に傷を受けたあと、重太郎は、行きつけのそば屋までたどりついてそこで息をひきとった。
 死に際して、彼のエピソードがひとつ残っている。「そば屋にたどりついて、はじめて仕込み杖を抜いたというんだ。最後の力をふりしぼって、縄のれんを切り捨てたっていうんだよ」(松山千春)縄のれんというのは、そうそう簡単に切れるものではない。剣にたよらず生きようとした重太郎の死をひかえた錯乱の中での、後悔の一刀であったのかもしれない。
 重太郎の死後、山越えをしようとしていた3人の刺客は、積丹の山の中で道に迷い、まもなく捕らえられたという。また、亡骸は漁師たちのてで棺におさめられ、紫の覆いをかけて、観音寺に葬られた。重太郎なきあと、再び美国は大きく乱れ、歴史に美国新統事件と呼ばれる数年間の漁師たちの抗争が繰り返されるのである。
 いっぽう、浜益に残った重太郎の妹と娘は、そのあとの北海道の歴史の中に埋もれるように、ニシン漁の不況とともに旅館もたたみ、浜益から姿を消す。「重太郎の妹のハマというおばあさんが気丈な人で、わたしたちの母親が結婚するときも、どうしても砂山の姓を名乗らせるって、貧乏なのに婿養子を取らせたほどの人だったようです」(砂山勇さん)千春には祖母にあたる、重太郎の一人娘のふみさんが、やがて、千春の母・美代子さんを産み、一家は足寄に安住の地を見いだすのである。
 重太郎は満27歳で死んだ。松山千春も今年、27歳だという。「今年がひいおじいちゃんの八十八回忌なんですよね。なんだか、因縁めいてますね。ただ、自分のルーツがこうやって明らかになると、北海道っていう場所へのぼくの愛着の正体が、はっきりわかってきたような気がするね」と松山千春はいう。
 彼の曾祖父・砂山重太郎が愛したのも、この北海道の厳しい自然に取り巻かれながら生きた、つつましく、たくましい民衆たちだったのだろう。

(1982年発行:週刊平凡)より
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▼ みなさんのコメント (コメント投稿欄は最下段にあります)
ご先祖様のエピソードを読まさせていただきました。浜益の地名が目に入り読まさせていただきました。
あんな小さな浜益にそんなエピソードがあったんですね。私も浜益の茂生村生まれ。旧名で茂生(モイ)と呼び、私が生まれた頃にはニシン魚が既に衰退し、いつしか小樽までの連絡船もなくなり、冬は陸の孤島と呼ばれて、雪で閉ざされていました。
季節が廻ると環境は牧歌的でこじんまりしたマッチ箱見たいなレトロでコンパクトな小さな村の港や海や山が輝きだして、私たち子どもにとり、天国で楽園の遊び場とした。
夏休みは、一日中海で、海水パンツもはかず、ウニやアワビ、ナマコ、ツブやヒルカイを素潜りで取り漁り、浜辺には流木で火をおこし焼いて食べた記憶が鮮明に残っています。今は石狩市に統合、道路も整備され昔の雰囲気はあまり残っていません。高校から札幌へ変わり、今は東京暮らしで、かれこれ40年が経ようとしています。懐かしく読まさせていただきました。ありがとうございます。カナレイ
| ▲ カナレイさんのコメント | 2018/04/11 3:29 PM |
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